医薬品ができるまで / ホーライ製薬 / ハードボイルド・ワンダーランド日記
そんなこと言っている場合か? | |
製薬会社もCROもSMOも治験責任/分担医師もCRCも治験事務局も、IRBメンバーも総合機構も厚生労働省も、一般の人も、共通の目標(願い)は「新薬を1日でも早く世に出して欲しい」だ。 製薬会社の場合は、言うまでもなく、新薬を1日でも早く市場に出していかないと、企業として存続が危うい。 CROやSMOだって、病気で苦しんでいる患者さんのことを思えば、新薬は早く欲しい。 治験責任/分担医師もCRCも治験事務局も、IRBメンバーも、新薬が出て欲しくないなんて、さらさら思っていないだろう。 総合機構や厚生労働省だって当然、国民の皆さんが病気から回復し、一日でも早く健康な生活を過ごして欲しいと日夜頑張ってくれているはずだ。 一般の人だって、親戚や友人などに病人がいれば、あるいは当人が病気なら、それこそ、画期的な新薬が出て欲しいと思う。 つまり、僕たちはみな、共通の目標(願い)として「新薬を1日でも早く世に出して欲しい」、「画期的な新薬が早く欲しい」と思っている。 ここまではいいだろうか? 間違っていないよね? その新薬を世に出すための最後のハードルとして、治験が有る。 ここで製薬会社は倫理的に試験を行い、有効性と安全性等の信頼できるデータを集める。 そのデータをもとに、総合機構の人も厚生労働省の人も、倫理性の確保やGCPを遵守しているかどうか、そしてデータの信頼を確認し、薬の評価を行い、世に出していいかどうかの判断をくだす。 CROのモニターの皆さんもそうだし、CRCの方もそうだろう。誰もが1日でも早く薬を世に出し、1秒でも早く患者さんのもとに届けたいと思っているはず。 つまり臨床試験に関わっている人たちは、全員(関わっていない一般の人を含めても)、みな等しく、共通の目標(願い)として、「新薬が1日でも早く、世の中に出て欲しい」と思っている。 だから瑣末なことで(特にどれと指定している訳では無い)、ああだ、こうだと言ったり、CROと製薬会社とで連携が悪かったり、CRCとモニターが問題を起こしたり、総合機構の人、行政の人と企業とがぶつかりあったり(特にどれと言っている訳では無い)することも、まれにはあるが、臨床開発に関係している人の願いは同じはずなのだから、ね、そこんところを忘れないようにしませんか。 基礎研究を行っている国の機関や大学の研究所の人だって、日夜、研究に明け暮れているのは、同じ思いがあるからだ。 産学官が連携をはかり、製薬業界、CRO業界、SMO業界が一緒に知恵を出し合い、総合機構や厚生労働省は民間とも話し合い、制度的な面でバックアップを図る。 みな、等しく国民の皆様の健康な生活を願っているのだ。 だから、そんな時に、『重箱の隅のさらにその奥の角を曲がって2軒目』や『▼▲▲業界は、こちらのほうへ責任を押し付けてくる』とかね、『手続き上の、どう考えても治験の本質とあまり関係が無さそうに見えること』ばかりをあ〜だ、こ〜だと言っていて欲しくない。(そんなことを言っている場合か?そんなことを言っている暇が有るのか?) もちろん、きっと、とても大切なことをみんがそれぞれの立場で話し合っているのだろう。 でも、論議の最中に忘れて欲しくないのは「どうしたら1日でも早く、新薬を世に出し、救える命を救ってあげることができるかを考えたいんだよ、俺たちはさ、みんなで協力しあってそれを検討するために、ここにいるんだよね?」ということだ。 治験参加者さんの人権、安全及び福祉の保護を最大限守りながら、データの信頼性を確保し、早く治験を終わらせ、早く承認審査を行いたい。 明日ではなく、今日、たった今、新薬が欲しいんだ、という人がいるのだから。 僕も抗生物質で命を救われた身として、それを切に願っています。 だから「そんなこと言っている場合か?」という場面を、どうか減らしてください。(無いのかもしれないが。) そんな場面が無いのなら無いで、もちろん、それに越したことはない。 そんな場合は、治験のさらにより良い方向性を考えてください。 お願いします。 (みんなが、いがみ合っていてどうする?) 2005年1月23日 |
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『理想』を語ってはいけないか? | |
教育担当をやっているとトーゼン「あるべきモニターの理想像」を教えたり「あるべき治験の姿」を語ることが多い。 すると、現場の人間から「そんな理想ばかり言っていてもさ、現場はこうだからね。現実はこんなんよ。」という言葉が返ってくることもある。 僕もそうだと思う。それもまたトーゼンだ。 しかし、だからと言って「理想像」が不要か? というとそんなことは無い。 『「理想」はそうだけどさ、「現実」はこうだから。』という言葉が返ってきたときこそ、チャンスである。 あるべき姿としての治験という理想と現実の治験の差、これを「治験における問題点」と捉えることができるからだ。 僕たちは「問題を解決しよう」とか「問題は何?」とよく言うが、そもそも、その「問題」の定義は何か? 「問題」とは「理想と現実のギャップ」である、という捉え方もできる。 すると、僕が(私たちが)語る理想としている治験と現実のギャップを「問題」として捉え、そこをどう埋めていくか、いかにして理想像に近づけるか? ということを考えればいい。 理想を持たずに仕事はできない。 理想像を持たずに生きていけない。 「理想像」を「目標」と言ってもいい。 「そんなこと言ったってさ、理想ばかり言っていてもさ、現実は……」と嘆いていても何も変わらない。 「理想を語る」ことは悪くない。 現実に甘んじていてはいけない。 でも、その理想に向かって、出発する地点は、この現実からだ。 ここから、理想への第一歩を踏み出す。 『理想』を語ってはいけないか? 理想像を語り、現実とその理想像の間にある深く広いギャップを認識し、それを少しでも埋めていく。 世の中を変えるということは、そういうことだ。 たとえ砂漠に水を撒くような仕事だとしても。 理想を語らない政治家に僕は魅力を感じない。 でも、理想を現実に結び付けない政治家には一票を投じない。 『理想』を語ってはいけないか? 2005年1月16日 |
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せめてもの願い | |
楽天のサイトの中に作ったブロッグ(1月9日付け)で治験に参加するボランティアの皆さんが一体、何人くらいなのかを試算してみた。 大体、一つの新薬が世の中に出るまでにフェーズ1からフェーズ3までで、約1000人だ。 十個の新薬が有ったら、1万人。(僕の故郷の村の人口は約4000人。) 新GCP施行後に治験に参加して頂いた方は何人になるのだろうか? あれから丸7年経っている。 1年間に出る新薬の数を少なく見積もって20品目として、20*7年間で140品目。 140品目*1000人で140,000人。14万人だ。 (非臨床試験に“参加”したマウス、ラット、犬、猿などの生命を考えると膨大な数になる。) 日本の全人口を1億2千万人として、約0.12%だ。 成人以上を考えると、もっと高い割合になる。 つまり、約1000人に1人は治験に参加されているわけだ。 皆さんの会社の従業員数は何人ですか? (僕の故郷でも4人はいることになる。) 1000人に1人というのは、結構身近な数だと思う。 (実は僕も参加したことがある。) そんなご近所さんが参加された治験のデータという貴重な物を、おろそかに扱うことができるだろうか? あなたの隣に座っている人のデータを、プロトコル違反のため削除、なんて簡単に言っていいのだろうか? しかも、治験参加者の皆さんは、通常の診療を蹴って治験に参加して頂いたのだ。 ウォッシュアウトされて薬の効果を一旦切ったり(つまり、せっかく押えていた症状がまた出てくるわけだ)、プラセボにあたることを覚悟して参加されたのだ。 治験に参加されると、通常診療よりも濃厚な診療・診察を受けることができるとは言うけれど、それだけ採血(痛い)されたり、通院時間(会社を半休とったり)を割かれるわけだ。(仕事も当然、残業に回ったりする。) この貴重な生命体と時間と自然の資源を使った治験データをおそろかに扱わないためにも、せめてGCPを覚えてください。 GCP違反でデータ削除(最悪、治験のやり直し)は、モニターの皆様がコントロールできる範囲で起きていることが多いのですから。 僕からのせめてものお願いでした。 2005年1月9日 |
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今年を占う(2005年) | |
このサイトを立ち上げて6年目に入った。 僕がこのサイトを立ち上げた当時は、一生懸命『治験を啓発しよう!』と製薬協や臨床薬理学会の先生方が危機感をつのらせていた。(なにしろ新GCPがICHから導入された時に、『黒船がやってきた!!』と言われたもんさ。) 確かにあの当時はSMOはおろか、CROですら黎明期だった。 その後、CROが増え始め、SMOやCRCという言葉が徐々に治験関係者の間に広がっていった。 そして、今や『大規模治験ネットワーク』を日本医師会が事務局をやっているほどである。 昔話を懐かしむのは置いといて、これからのことを考えてみよう。 乱立したCROやSMOは自然淘汰の時代に入ってきた。ただし、まだまだ新規参入もある。 治験ネットワークも各地で構築されてきた。これまた、まだ混乱状態だ。 (イチオー、日本医師会の大規模治験ネットワークが、このあたりをとりまとめている。) これからは、このネットワークの持つ潜在的能力を見出していくことになる。 ネットワーク化されると、どんなことが起こるのだろうか? (各家庭の1台のPCがインターネットでネットワーク化された時に起こったことを考えると、相当なことができそうだ。) 新GCPが導入されてから既に8年目になるので、GCP自体(解釈云々など)の混乱は今はほとんど無い。 もうGCPと言えば、今のGCPを指しているのが当たり前になった。 旧GCPなんてのは、新入社員にしてみれば歴史上の産物だ。 どうやら、黒船は目的を果たして帰ったららしい。(ただし、いろんな置き土産を置いて。) CRCも先日、臨床薬理学会の第1回CRC認定試験が有った。(合格した皆様、おめでとうございます!!) きっと近い将来、モニターも認定制度が導入されることだろう。 今、混乱しているのは「医師主導型治験」だ。 これをなんとかしたい。(って、僕は別に厚生労働省に勤務している訳では無いが。) そして、日本の製薬企業にとっては、もうすぐ完全施行される薬事法の大改正だ。 これで、今年の4月からは製造承認申請だけでなく販売承認申請にもなるので、今、製薬会社の社内では大幅な組織改正が行われていることだろう。 また、この改正をビジネスチャンスと狙っているベンチャー企業も有るだろう。 ベンチャー企業の他にも、新しい製薬会社がまだまだ生れることだろう、と言っても、合併や吸収(いわゆるM&Aだ)によってだ。 ベルリンの壁が崩壊し、ソ連がロシアになった当時、地球儀や地図は大変だった。 あらゆることが起こった。その影響は今も残っている。 日本の製薬業界の地図も、大きく塗り変わる時代に入ったと言えよう。 この時代になって一番頼れるのは何か? はい、その通り。 『自分の市場価値』だけです。 今年は、良い一年でありますように。 2005年1月1日 |
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人生における成功者とは? | |
「13歳のハローワーク」を書いた村上 龍が、「人生における成功者の定義と条件」という本を出した。(NHK出版) この本の中で村上 龍は四人の「成功者」と「人生における成功者の定義と条件」について、対談している。 その四人は以下のとおり。 安藤忠雄(建築家) 利根川 進(科学者) カルロス・ゴーン(社長・CEO) 中田英寿(プロ・スポーツ選手) 村上 龍はまず、人生における成功者の定義として「生活費と充実感を保証する仕事を持ち、かつ信頼できる小さな共同体を持っている人」という仮説を立てた。 彼が書いた本の中では、多分、芥川賞を受賞した「限りなく透明に近いブルー」以上に「13歳のハローワーク」は売れたに違いない。 そして、間違いなく買っていったのは「13歳」じゃなく、既に働いている人たちだろうと僕は睨んでいる。 「13歳のハローワーク」では、まず、自分は何が好きなのか? というところから だったら、こんな仕事がいいかもね、という新しいアプローチで仕事の紹介をしている。 自分が好きなこと(興味を持っていること)から、仕事を決めるというのは、考えてみれば、だいたいの人はそうやっていると思う。 特に現代のように終身雇用の保証もなく、転職しても、奇異の目でみられることは(あまり)ない時代なのだから。 僕は今、教育担当者という立場から、モニターのモチベーションを上げるにはどうしたらいいか? とか、モニターに限らず、一般社員のモラルを上げるにはどうしたらいいか? ということに興味を持っている(仕事上)。 で、いつものようになんでも「本を読む」ところから始める僕は、今回も何冊かの「モチベーションを上げる方法」類の本を読んだ。 その結果、結局、大別すると次の2点になる。 1)やりがいのある仕事を与える。 2)やりたい仕事を見つける。 「1)やりがいのある仕事を与える。」は、経営側からみたものだ。 社員は一人一人、モチベーションを持つための理由が異なる。 ある人は給料アップだったり、ある人は自分のライフプラン達成だったり、ある人は出世することだったりと千差万別である。 その全ての人たちの個々の望みに対して、会社はいちいち応えてはいられない。というか不可能だ。 そして行き着く先は「そもそも人間は何かを達成した時に幸せだと感じる」だから「生き甲斐ややりがいを感じる仕事を提供する」となる。 「2)やりたい仕事を見つける。」は、今度は、これは従業員の立場からみたものだ。 自分がやりたい仕事につくことができたら、それは当然、仕事をやる。(やりたい仕事なのだから) この考え方は、「13歳のハローワーク」と同じ視線だ。 確か、昨年の最後の治験日記に僕はこう書いた。「人生に意味を見つけるために生きるわけじゃない。僕はただ生きることだけが目標だ。」 今でも、そう思っている。人生に意味を見つけることをやっていたら“一生”かかってしまう。 僕はただ生き延びることだけを目指している。しかし、楽しく生きていたら、なおよい。 僕は1日のうち会社で過ごしている時間が10時間前後。通勤時間に往復2時間半。これだけで24時間の半分を費やしている。 この消費されていく時間が苦痛に満ちた、苦悩に満ちた時間だとしたら、僕は耐えられない。 幸い、僕は自分が好きなことを仕事としてやれるようになった。 大学を卒業した時には、こうなっているなんて想像もしていなかった。 でも、今は僕はそれなりにハッピーだ。自分が好きなことを仕事としてやり、そのうえ給与までもらっている。 楽しいことをやっていて、給料までもらっていいのだろうか? (いいのです。) もしあなたが、今の仕事、今の職場について、この1週間、愚痴を毎日こぼしていたら、少なくとも3日以内に、別の職種、職場を探すことを提案します。 だって、それって、人生の貴重な時間の浪費だと思いませんか? 皆様、来年もよい一年でありますように。 2004年12月25日 |
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この一年を振り返って | |
この一年に治験や医療・製薬分野で起こったことを振り返ってみた。 (以下、順不動) ▼ 医師主導の治験がいよいよ本格的に始まった。 このこと自体はいいのだが、まだまだ緒についたばかりで、きっとこれからいろんな問題が表面化してくるだろう。 それは、どんなプロジェクトでも同じだ。 いろんな問題が山積みだろうが、その都度、解決していくしかない。 せっかく立ち上がった制度なので、なんとか定着して欲しいものだ。 ▼ 山之内製薬と藤沢薬品が合併することになった。 国内のベスト10以内同士の合併ということで期待が大きい。 「藤沢薬品」と「山之内製薬」のせっかくの合併なので、名前は「フジヤマ薬品」はどうか? というネタで第三者を笑わせてくれたが、「アステラス製薬」とのこと。 この合併の裏話(他社にも声をかけたが、断れてとか)がいろいろ有り、何かと話題になったが、とにかく、今回の合併が、業界の再編成に繋がるか、興味津々だ。 あ!そうそう、フランスの製薬会社サノフィが、自社の2倍以上の規模のアベンティスを「吸収」したっけ。 これは、もうフランスの国策だ。 この先の日本の製薬業界はどうなるのだろう? ▼ 薬事法の大改正 今まで、新薬承認申請の申請者は、基本的に製薬会社だ。 その名前のとおり「製薬工場」があり、そのため新薬「製造」承認申請だった。 しかし、今回の大改正により、工場をもっていない会社でも新薬の製造「販売」承認申請が可能になった。 これで、たとえば工場を持たないベンチャーであっても、新薬を持つことができるようになった。 そして、このことにより、発売後の安全性情報の収集管理が大切になった。 あるべき姿になったとも言える。 ▼ 薬販売の規制販売について ドン・キホーテが深夜の薬販売のために「テレビ電話」での薬剤師との「対面」販売を始めるという、「アラワザ」に出た。 これをきっかけに「薬局・薬店・ファーマシー」が、実は殿様商売をやっていたことを認識した。 こんなところかな。 僕の個人的なニュースとしては(どうでもいいのだが)・・・ ・「また」転職した。 ・ホーライ製薬の総会(オフ会)をやった。 ・ブログにはまった。(中毒状態) ・フランス人女子大生に「折り紙」を通じて、国際交流に努めた。^^; 来年はどうなるのかな? 2004年12月19日 |
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もってのほか | |
日本には「日本医師会」というのが有る。 もちろん、立派なサイトも持っている。 http://www.med.or.jp/ そこから、関連サイトにリンクで「日本医師会 治験促進センター」にも行ける。 http://www.jmacct.med.or.jp/ そして、「日本医師会」のホームページの「▽オピニオン」から「ヘルシンキ宣言」が読める。 そこには「本日本語訳に関しては、日本医師会訳であることを明記いただければ、転載自由です。」とも記載されている。 http://www.med.or.jp/wma/helsinki02_j.html その「ヘルシンキ宣言」に次の一文が有る。
「被験者の福利に対する配慮が科学的及び社会的利益よりも優先されなければならない」のだ。 これは「ヒトを対象とする医学研究においては」とあるが、もし、医学研究ではない、ただの普通の医療行為だった場合は、もちろん、その患者さんのことだけを考えればいい。 医学研究でもない、一般診療においては「被験者の福利に対する配慮よりも社会的利益、さらにそれよりも企業利益優先」なんてのは、もってのほかである。 もう一度、言わせて頂きますと、「もってのほかである。」 もし、あなたの奥さんが、ご主人が、あなたの恋人が、あなたの子どもが、親が、友人が薬害に有った時、あなたは、企業や行政、病院、医療従事者に対して、どう対応して欲しいですか? 2004年12月11日 |
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「形」か「内容」か | |
「形」ばかりを気にする人がいる。 「内容」が伴っていなくても、「形」さえ整っていればいいという考えをする人。 それは、何も物理的な「形」だけでなく、対面的、対外的な「形」だけ取り繕う、ということも含んでいる。 とりあえず形だけでもSOPを整えようとか、とりあえず形だけでも体制を整えようとか、よく耳にしませんか? まぁ、とりあえず形を整えて、それから内容を充実さえる、或いは実行に移す、となればまだいい。 「とりあえず形だけ」整えて、それっきり、だと困る。 逆に「内容」が有れば「形」にはこだわらない人もいる。こだわらないどころか無頓着な人もいる。(どちらかというと僕はこれだ。) これまた、困りモンだ。 例えば、内容は素晴らしい報告書でも、形が整っていないと読む気にならないことだってある。 もう少し形を整えたら、もっと素晴らしい治験薬概要書になるのに、とか、治験総括報告書になるのに、なんてのもある。 そして、プロトコルにおいては、「形」(読みやすさ)が、治験の質を左右することすら有る。 読みにくい、理解しにくいプロトコルは、やっぱりプロトコル逸脱を誘引しやすいと思う。 このあたりを、今後はもっと考えるべきだろう。 ごちゃごちゃと文字ばかり書いてあるPCの取り扱い説明書って、読む気がしないよね。 あれは、技術者が書いていたからだ。 最近は、随分と改善された。 読みやすい文章、読みやすいレイアウト、索引機能、カラー印刷、フローチャートや図解・・・などなど。 そして、それをCDにやいて、PC上ではハイパーリンクを張るとか、カーソルをあてると注意がでたりとか、そんな工夫があってもいい。 なんでもそうだが、アイディア勝負だ。 そして、内容と形の両方が素晴らしいものができたら最高だよね。 でも、その前に、素晴らしい新薬の種を見つける、という問題があるのだが。。。 2004年12月3日 |