医薬品ができるまで  / ホーライ製薬 / ハードボイルド・ワンダーランド日記

ホーライの治験日記(1)

過去の日記へ

申請取下げ依頼

新医薬品等の承認申請に係わる取下げ依頼について」という通知が厚生労働省から、6月4日付けで出されました。

この通知の目的は、新薬の承認審査の滞留を防止し、審査の迅速化を図るためです。

取り下げ依頼というタイトルですが、ハッキリ言って「依頼」ではなく「指示」ですね。

で、その取下げを指示される場合は、次の4点。

まず、「申請書受付時点の形式審査で資料不足が判明した場合」です。

そりゃそうだ。
俳句の雑誌に投句する時だって、季語の漢字を間違えていたら、そりゃ門前払いというものです。
その時点ですでに「気概無し」と判断されても仕方が無いです。

今まで、申請書を出した後で、「あ!あの資料を添付するのを忘れたので、至急、提出に行かなくては!!」とか「おいおい、提出した資料は前のバージョンだぞ!大至急、差替えてもらってこい」なんていうのは論外っちゅうもんです。

次に、2番目としては審査において有効性、安全性が満たされていないと考えられる場合で、以下の1)から4)に該当する場合です。

 1)面談等を踏まえ、申請された内容では有効性・安全性について確認できず、追加試験の実施等で照会事項に対する回答作成に1年以上が必要だと、総合機構の担当審査部が判断した場合。

これ、すごいよね。「申請者が」じゃなく、「担当審査部が」1年以上必要だと判断した場合だからね。(以下、同じ)

 2)初回の専門協議を踏まえ、申請された内容では有効性・安全性について確認できないと、機構の担当審査部が判断した場合。

 3)面接審査会及び第二回目の専門協議を踏まえ、申請された内容では有効性・安全性について確認できないと、機構が判断した場合。

 4)第二回目の面接審査会及び不服申し立てに基づく専門委員以上の専門家の意見を踏まえ、申請された内容では有効性・安全性について確認できないと、機構が判断した場合。

まだ他にも2つありますが、基本的には照会事項の回答に関して1年以上かかる場合や、照会事項の回答のために再試験や追加試験を行う場合で、1年以上かかる場合は、「申請の取り下げ」が依頼(指示)されます。


この通知を「厳しい」と取るか、「当然でしょう」と取るか、各会社(あるいは個人)で違うでしょうね。

ここで、逆の立場になってみましょう。

例えば、あなたは、会社の経理担当だとします。経費を処理するには、当然、受領書なりなんなりが必要です。
ところが、その受領書が添付されていない。そりゃ、突っ返しますね。

あるいは、予算を取るために複数のベンダーから「相見積もり」をとっているのに、何故か値段が一番高いベンダーを申請してきたら、当然理由を問いただしますね。
納得のいく理由が来るまで、その伝票はあなたの机の上に放置です。(ファイル内でもいいですが)
で、今期中に発生した予算は、今期中に処理をしないといけないのに、その理由が予算申請者から、今期中に来る気配が無い。
いったい、どうなっての? です。

ひょっとしたら、予算申請者には「今回の予算申請は通らないと思うけれど、通ったらもうけもの」という不届き千万(ふとどきせんばん)な者もいるかもしれません。
あるいは「ここまでやったからには、予算申請しないとさ、世間体もあるし、社長にも言い訳できない。だから、経理部でダメだと言われたから、中止しましたというほうが理由がつく」なんて考えている情けない人もいるかもしれません。
もし、そういう輩がいたら、あなたはあほらしくなりませんか? 怒りたくなりませんか?

一方できちんと決められた通りの書類を出し、納得のいく理由をつけて予算申請を提出してくる人もいます。
当然、そちらの人を優先的に処理したいですよね。

早く処理したいのですが、不備な予算申請をしてくる人が多くて、そのミスのチェックだけに追われていたら、どう感じます?

今回の「新医薬品等の承認申請に係わる取下げ依頼について」は、僕は当然だよな、と思います。あくまでも、僕は、ね。

あなたの会社の反応はどうです? その会社の反応に対して、あなたはどう感じました? 納得しましたか?


2004年6月27日
動く世界

今週になって、初の「医師主導型治験」の治験届が提出された。

治験届を提出した医師は、自分が癌患者でもある。
そこで、日本ではまだ未承認の癌の薬を承認させるべく、自らがその薬の治験をやるということ。
真剣勝負だ。
医師主導型治験に関する提言、問題点、情報はここが詳しい。
  ↓
「癌治療薬早期認可を求める会」

実は、この会の活動を報道した新聞記事を新入社員の導入研修に使った覚えがある。
それは、当時の厚生省に、海外で使われているのに、日本では使えない癌治療薬に対する早期承認要望書を、この会が提出したという記事だった。
この記事を読んで、新人たちに、いかにしてこれらの問題を解決できるかを考えてもらうのが研修の目的だった。
(この下の方にある5月4日の日記参照)

その研修を行ったのが3,4年前だった。
あれから、わずか3,4年で、ここまで来た。
あの当時、誰が「医師主導の治験」なんて、考えていただろうか?


一方で、日本医師会が事務局をやっている「大規模治験ネットワーク」に、ある製薬会社が治験を申し入れ、それが受け入れられた。
事務局は、「日本医師会 治験促進センター」のHPで、治験ネットワークに登録している医療機関で、この治験を実施してくれるところを募集している。

これまた、3,4年前では考えられないことだった。


確実に世界は動いている。

井戸の中にいて、「ほよほよ」していてもいいけれど、その間に世界は変わっている。
環境が変わっているのに、その環境に対応できないモノは滅んで行くのが自然の摂理。

井戸の中にいても、これらの環境の変化を感じて、考えている人は、まだいい方だ。

問題は、そういった環境の変化を知ろうとしない人、知っても「関係無いや」と思う人。
でも、それも個人の考えだから、基本的に、僕は何も思わない。
ただし! お願いですから、そういった人たちは、変わろうとしている人たちの邪魔だけはしないでください。

平穏なぬるま湯をかき乱して申し訳ありませんが、僕は井戸の中に少しずつ熱湯を足していき、水を井戸の出口に近づけ、そこから壁を這い上がり、外界に出たいんです。

世界が動いているのに、このかび臭いぬるま湯に漬かっているのは、僕は嫌です。(お好きな人は、どうぞ、そのままで。)


僕は、今、動いている世界を見たいのだ。


2004年6月19日
僕の功罪

今年、入社してきた新入社員の研修を5月に5日間ほど、僕が担当して、好き勝手な研修をやった。

もちろん、会社のほうには、それなりに、この会社っぽい研修をしたかのように報告してある^^v

たとえば「治験における倫理について」というタイトルでテキトーに上司には報告しておいて、実は、内容は「救命ボード」と「心臓移植ネットワーク」の検討をやってもらった。

この5日間に、僕が一貫して新人たちに教えたのは、今の会社にいる人たちには弱い「自分で考え、自分で決断し、自分で行動する」ということだった。


その研修の間には、いろんな事例を分かりやすく教えるために、僕の過去の経験を話した。
自分の過去の経験を話すと、必然的に、僕の場合は、自分が過去に勤務していたいろんな外資系の会社の様子が話の端々に出てくる。

それが、新人たちには好評だった。 研修中はね・・・・・・。

ところが、研修も一段落つき、自分たちの所属する組織で働き始めて、そろそろ一ヶ月が過ぎようとしている。
すると、なんだか「おかしい」ということに気づいてくる。

そして、新人の中には「自分が、この会社のカラーに染まる日が来るかもしれないのが恐ろしいと思う」という人まで出てきた。「どうしたら、この会社のカラーに染まらないでいられますか?」という質問までしてくる。

つまり、新人が見ても「このやり方って、ヘンじゃない?」と思って、先輩に質問すると「そうなのよね。おかしいんだけれどさ、今まで、ずっとこれでやってきたからねー」という答えが返ってくるだけで、そこから先に進まないのだ。

さらに先の研修中に、分からないことを先輩社員に聞きにいくという設定の研修をやった。
ところが、聞きにいった新人に、「そういったことは、事前に言っておいてもらわないと、困る」と先輩社員に怒られたという経験までしている。

入社式の時の社長の「我が社では困った人がいると、周囲の人が助けてくれます」という言葉と裏腹に・・・・・・。

そろそろ、新人たちも、入社式での社長の言葉の空虚さに気づき始めた。
入社前に思っていた夢が「現実」という強敵に、今、襲われかけているのだ。
そして、僕がやった研修の前の所謂「新入社員全体研修」(昔からこの会社にいる社員が講師)で教わったことが、「いいとこどりの話」であったり、「建前論」だったということに気づいてきたわけだ。


すると、新人たちは、僕が研修中に話していたいろんな外資系の会社と比較をし始める。
そこで「どうしたら、この会社のカラーに染まらないでいられますか?」という質問になって、僕に返ってくるわけだ。

もし、僕が今の会社にいなかったら、今年の新人たちは「会社って、そんなもんなんだ」で済んだかもしれない。
昔からこの会社にいる社員が、昔からのやり方を教えていれば、他を知らない新人たちは「そのやり方が全て」だと当然思う。なにしろ、新人たちは、ほかの会社のやり方を知らないのだから、比較のしようがない。

しかし、ぼくの研修中に、いろんな会社の、いろんな仕事のやり方、考え方を知ってしまったがために、新人たちは、困っている。


僕がやったことは、良かったことなのだろうか? と、今になって僕は思い始めた。 
狭い井戸の中の世界しかしらない人たちで、しかも、その井戸から出られないという人たちに、井戸の外を教えることはいいことなのだろうか? 

知らなかったら済む世界を知ってしまうということは、いいことなのだろうか?

僕は自分で「生きるということは知ることだ。そして、それを恐れてはいけない。」と思っているが、それはあくまでも僕自身の話。

今まで、自分たちの方法で延々とずっとやってきて、誰も不思議だと思わない人たち、文句を言わない世界にいる人たちに、「それって、変でしょ!」ということを言って、平和な日々をかき乱すことはいいことなのだろうか?


僕は、今の会社に移ってきてから、自分のやってきた2年間の功罪を考え始めている。


2004年6月12日
裏切れない

治験体験者のアンケート結果 を読んだ。

裏切れないと思った。


治験に参加された方の多く(80.2%)が、「治験に参加して良かった」と答えている。

治験に参加された方の過半数(68.9%)が、「治験に参加して治験のイメージが良くなった」と答えている。

治験に参加された方の多く(88.7%)が、「一般の人々に治験はもっと知られるべきだ」と答えている。

治験に参加された方の多く(70%以上)が、「治験の良い点は『新しい治療法が生まれること』、『新薬の開発に貢献できること』」と答えている。


裏切れないと思った。

「自分に効果はなくても、他の誰かに効いてくれたらいいと治験中考えて、最後まで治験を続けました。」と答えてくれた患者さん。

「治験により1日も早く新薬での良い治療が出来るよう願っています。」と答えてくれた患者さん。

「私は治験薬を続けることによって良い薬が早く出来ることで皆様が幸せになるように。」と答えてくれた患者さん。


裏切れないと思った。

「日本で未承認の薬を使用した場合の混合診療を認めるべき。新しい薬や医療用具で有効なものの使用を制限する現行法は改善すべき。」と書いてくれた患者さん。



僕たちに希望を与えてくれる患者さんの言葉・期待を裏切ってはいけない。


2004年6月5日
セクショナリズムに対抗する方法
会社で『問題が発生した時の会議』というのが、まぁ、時々ある。

例えば突発的な事故に近いものとしては、「ダブルブラインド」試験の途中で「実薬」と「プラセボ」が逆に割付けられていたことが分かったとき。

もっと、頻繁にあるのは「監査部門」と「臨床部門」の会議で、「ある施設のモニタリング報告書が全く書かれていない」ことを指摘されたとき。

さらに、「総括報告書」を当局に提出したあとで、図や表に間違いが発見されたとき。

身近な例で言ったら「なんちゃらプロジェクトが予定通り進んでいない」とかね。
例をあげ始めたら、きりがない。

このような時に開かれる会議の目的は何か?

一番の目的は言うまでもなく「問題をどう解決するか?」だ。 そうだよね?

そのために、原因解明しないといけない場合もあるし、原因解明よりも、まずは、さっさと、とにかく問題解決する方法を考えないといけないとかね。

ところが、意外と、その一番の目的が果たされていないことが多い。信じられる?


話は飛ぶが、ある映画で面白いエピソードがあった。(以前、ハードボイルド日記でも書いた)

アメリカで逮捕された日本人犯罪者を、アメリカの二人の刑事が飛行機で日本まで連行してきた。
成田空港で、日本人の刑事に犯人を引き渡せば、それで終りという仕事だった。
ところが、連行されてきた犯人の仲間が、刑事に変装して空港にやって来て、まんまと犯人を救い出して、逃げてしまう。
そこへ現れた本物の日本人刑事二人。
この時の、日米の刑事たちのとった反応が面白い。

日本人刑事二人の言葉・・・「犯人を逃がした責任を、どうとってくれるのだ?!」
アメリカ刑事二人の言葉・・・「どうやって、逃がした犯人を捕まえる?」

『問題』が発生すると、すぐに『責任追及』に走る日本人。
『問題』が発生したら、『問題解決』に向かうアメリカ人。

これは、典型的な思考パターンを見事に反映していないだろうか?

例えば、最近の三菱自動車の「クラッチ問題」。
今、問題となっているのは、会社ぐるみで問題をもみ消そうとしていることだ。
この背景には、「責任追及」していくと、誰かが責任を取らないといけないから、もみ消そうとしたのではないかと、僕は思う。(あとは、会社のメンツを考えた)

クラッチ問題が発生し、社内で『問題』として、提示された時に「どうして、こんな問題が発生したんだ? いったい、製造部門は何をやっていたんだ?!」とか、「誰が品質管理の責任者だ?!」という責任者追及とか、「問題が表て沙汰になったら、誰が責任をとるのか?」という、身内を守ろうとする思考経路が働いたのかもしれない。

この時に、「どう解決するか? 再発防止策は?」という発想がなされていたら、事態は相当違ったと思う。


さて、みなさんの会社ではどうでしょうか?

悪しきセクショナリズムが有りませんか? 

「この問題の責任部署はどこだ?!」とか、「この件に関しては、うちの部署は当初から反対していたが、●●部がいいんだと言ったから、従ったまでだ」とか、「それは、うちの部の責任範囲ではなく、、▲▲▲部の責任だ。」とか、「●●部長が許可したからやったんです。」・・・・・・と言うような『責任逃れ』のためだけの発言。


問題が発生する前にも、こんな発言を聞きます。 
例えば、新しいプロジェクトが立ち上がる時の会議で・・・・・・
「これは、専門家の誰々さんのいる■■■部の仕事であって、うちの仕事ではない」とか「それは、そもそも、うちの本来の仕事範疇ではなく、▲▲▲部の責任だ。」・・・・・・と言うような『責任を負わされないようにする』ためだけの発言。(聞かない?)


「会議」は「責任者追及の場」ではありません。
それに責任者を追求したところで、問題は解決しませんし、何も生み出しません。

まずは「問題をどう解決するのか?」、そして問題の原因が判明したら「再発防止策をどうとるか?」 ということが大切なのです。

ここを会議の司会者も参加者も誤解していることが多い。
その誤解がそのまま行くと、三菱自動車のようになる。

セクショナリズムがもとで「会議が紛糾」した場合、どうしたらいいか?

それには、我々の真の目的は何か? 我々の仕事の共通の目標は何か? という、一歩高いところから考えることだ。
あるいは、原点に立ち戻る、と言ってもいい。

例えば、製薬会社なら「いかにして、早く治験を進めるか? いかにして、早く承認申請をするか? いかにして、早く承認をもらうか? そのために、今のこの問題を、どう早く解決するか?」でしょ?

間違っても「うちの部署で問題を発生させない。 我が部門で責任をとらないこと。 問題の責任者を見つけること」が共通の目標じゃないですよね?

企業に勤めている人は、当局の仕事をすぐに「玉虫色のお役所仕事だ」とか「官僚主義だから物事が決まるのが遅い」と、揶揄していますが、実は、企業においても、その言葉が、そのまま返ってくるところが多いと思います。(少ないことを祈りたいですが。)


問題が発生したら、そしてセクショナリズムで会議が紛糾したら、もう一度、考えてみましょう。 
僕たちの仕事の真の目標は何か? ということを。
僕たちの共通の目的は何か? ということを。
責任追及だけでは、何も生み出さない、ということを。
責任逃れをするのが、会議の議題ではない、ということを。


僕たちが解決すべき問題点は、ただ一つ、1日でも早く、より良い薬を世の中に出すには、どうしたらいいか? です。

2004年5月30日
遠い過去と遠い未来

さて、スペインの「サクラダ・ファミリア聖堂」をご存知? ご存知ですよね。

あの聖堂の歴史を簡単に書くと・・・・・・

1882年初代建築家 F.P.ビリャール・ロサーノにより地下礼拝堂着工。
1883年、前任者の辞任に伴いファンマルトレルに依頼するが、マルトレルはこれを固持し以前彼の助手をしたことのある、当時31歳のガウディを推薦し、ガウディが2代目建築家に就任する。
現在は7代目の建築家 F.P.カルドネールにより身廊部側壁の建設が進む。

この、サクラダ・ファミリアが完成すれば、あの尖塔が、パイプオルガンのパイプの役割をし、街中に素晴らしい鐘の音色を響き渡らせてくれる事を想像すると、自分が生きている間に、是非完成して欲しいという思うが、そうはいかない。

着工してから、既に120年。完成するのは、100年後か? という話。

自分が生きている間に完成しない仕事をする人の気持ちって、どんなだろう?
充実感とかあるのだろうか?

先日の「ハードボイルド・ワンダーランド日記」に「薬に歴史あり」を書いたが、サリチル酸の発見から結核の薬のパラアミノサリチル酸の合成までに、50年かかっている。

今では、一つの薬が発見、発明されてから世の中に出るまでに10年くらいだろうか。
よく薬は世の中に出るまでに時間がかかると言われているし、僕も、いろんなところで、それを書いている。
しかし、サクラダ・ファミリアよりは早い(笑)。
年々加速している感じさえある。

エイズが知られ始めてから、HIVの同定までの時間も早かった。


一方で、漢方薬の歴史は古い。

日本においても・・・・・・
「薬の日」が5月5日になった由来は、611年のこの日、推古天皇が大和の兎田野[うだの]で薬草を採取する薬狩りを催し、これから毎年この日を「薬日[くすりび]」と定めたという故事にちなんでいるとのこと。「全国医薬品小売商業組合連合会」が、推古天皇のこの故事から1300年後に制定した。(以上、「カッコ亀井」さんの「Ten-shock!!」(転職☆天職) より)

ひとつの薬が世の中に出るまでの時間が、たとえ10年だったとしても、僕たちは1000年以上前から薬を探していることになる。
人類でいうなら、500万年ほど前から、薬を探している。
そして、今も、探し続けている。

これは、永遠に終わらない仕事と言える。

一人の研究者が残してくれた足跡の上に、別の研究者が新しい知見を加え、さらに、それが積み重なっていく。

新薬を世の中に出せた研究者は幸運なほうだ。

全く、何一つとして残せず失敗だけの研究者もいる。
しかし、この「失敗」という事実も、ひとつの新しい「知見」である。次の研究者は、同じ失敗を繰り返さずに済む。

モニターをやっている方々も、ひとつの新薬を世の中に出すと、次の新薬開発に携わる。これを繰り返す。

僕たちは、推古天皇の薬草採取を引き継いでいるのだ。
そして、それを次の世代にバトンタッチする役割を、担っている。


僕の好きな漫画に「ヒカルの碁」がある。
その最終巻で、ヒカルは「何故、囲碁を打つのか?」という問いかけに対して、こう答えている。

「遠い過去と遠い未来を繋ぐために」。

また、先週まで、このサイトのトップページで紹介していた福井博士の言葉にも「ひとりの人間は、無限の過去、無限の未来とつながっている」とある。

僕たちの新薬探しも、また同じ。

そして、僕たちが生きていること、それ自体が『遠い過去と遠い未来を繋ぐため』にあるのだ

だからこそ、『今、この瞬間を、全力で生きよう』と僕は思う。


2004年5月22日
新人研修「治験の問題点と解決方法」の結果

先週の「新入社員研修」の最後に、「日本の現状での治験の問題点と解決方法」について検討してもらった。

研修方法は・・・・・・

(1)僕が用意した3種類の資料(ネットで集めたもので、合計で30ページほど)を読んでもらい、5人で検討すること。
(2)検討時間は資料を配布してから90分。90分後には発表できるようにすること。(発表時間は15分以内にすること)
(3)検討方法としては、僕に話しかける以外は何をしてもいいという条件。


この研修の目的はもちろん、上記の研修の名前のとおり、日本の治験の問題点を把握して解決方法を考えることなのだが、実は僕が今回の一連の新人研修で教えた次の項目のチェックにも使った。


(1)締め切りは死守する(完成度99%で締め切りから1日後に資料を出すより、80%でもいいから締切日に間に合わせること)

(2)自分で検討し、自分で結論をまとめること

(3)その上でチームワークを発揮すると、相乗効果が得られること

(4)問題解決方法としてのブレインストーミングの使い方

(5)情報は待っているだけでなく、自分から探しに行くこと


この研修を始める時に、僕は「よ〜〜〜く考えてから検討を開始しないと、時間が不足するよ」と言ってから開始した。

しかし、案の定、5人は全く同じ資料を全員が読むところから始めた。(あ〜〜ぁ、やっぱりな、どうなることやら、と僕は思った。)

5分ほどたったところで、新人女性の一人が気づく。

「ねぇ、みんなで読もうと最初に言ったけれどさ、これだと間に合わないから、分担して読んで、あとでそれぞれから問題点を報告することにしない? 報告は・・・今から10分後で、どう?」とメンバーに提案する。(よしよし、と思う。)

10分後に、それぞれが担当した資料から問題点を報告することになるのだが、なにせ新人たちだ。キーとなる言葉や過去の治験状況が分からない。

そこで5人はそれぞれが担当した資料からキーになるらしいけれど、分からない言葉や状況を発表しあい、その情報集めから開始した。
ここでは、さきほどのようなミスは、もうしない。チームワークを発揮するために、すぐに役割分担を決め、それぞれがネットを使ったり、先輩社員に聞きに走り出した。


残り時間1時間というところで、問題点の洗い出しを始めた。
これも、最初はバラバラに報告し始めたが、そのうちに「行政」、「医療機関・医師」、「患者さん」、「製薬会社」という分類で問題点を整理したほうがいいというアイディアが出て、分類し始めた。


残り時間30分から、それぞれの問題点の解決方法の検討に入った。
司会進行役、記録役、発表資料のまとめ役、タイムキーパー役が自然に決まってくる。
しかし、問題解決のところでは、ブレインストーミングの方法はうまく活用できずに、アイディアを出しては、すぐにメンバー間で否定する、というよくあるパターンに陥った。


なんだかんだのすえ、資料を配布してから90分後には、それなりの発表資料ができ、A4で5枚のスライドにまとめあげた。
このサイトで発表してもいいかを聞き、本人たちの了承の上、その発表資料の概略を以下に示します。

(なお、新人たちがまとめたので、当然、理解不足や勘違いもあることをご承知おきください)

1.日本の治験の問題点

 ・空洞化
  (a) 時間がかかる
  (b) 質が低い
  (c) コストが高い

2.日本で治験を実施する際の具体的な問題点

 ・患者さん側
  (a) 治験に対するマイナスイメージがある
  (b) 家父長主義(パタナーリズム)がある
  (c) 皆保険制度である

 ・医療機関・医師側
  (a) 治験医師、CRCの質と量の不足
  (b) 医師の意識(やる気)不足
  (c) 機関・拠点の不足
  (d) 大病院でしか治験を実施できない

3.日本全体として「治験」に対する認識・意識が低い
 ・ほとんどの一般の人が「治験」を知らない
 ・言葉は知っていても、意義までは知らない

4.製薬会社が問題解決としてやるべきこと

 (1)教育(例;小学校、中学校の「ゆとりの時間」に社員が行って、治験の授業をする等)

 (2)啓蒙(新聞などのメディアを通しての「治験とは?」の紹介等)

 (3)情報の公開(治験に対するマイナスイメージを払拭するために行う)
  ・治験結果を患者さんに伝える(あなたはプラセボでした等も含めて)
  ・新薬として承認された(されなかった)ことを患者さんに伝える
  ・方法としては会社のホームページ等を使う

 (4)医師を教育し、治験医師認定制度を設ける
  ・実際に治験を行う医師に対するステータスや資金援助などで、インセンティブを与える
  ・資金は製薬協の会員会社等から一定の拠出金を集め、プールする。
   そこから、治験認定医師に対して「治験」を行った労働時間に見合った報酬を出す。


日本の治験はあまり進んでないということを漠然と知っていても、「具体的には何も知らなかった」というレベルから始めて、90分後には、ここまでいったことは、かなりよかったと思う。

上の表の「問題解決方法」の中には、既に実施されているのも有るが、4.(1)教育と(4)医師を教育し、治験医師認定制度を設ける はなかなかいいアイディアだ。

そして、研修の最後に、いつものとおり「あなたとしては、何ができる?」という質問で終わった。


5羽の鷹の雛は、今は、まだ巣立ったばかりで、すぐにそのへんにぶつかったり、思わぬ敵にたじろいだり、時には地上でヨタヨタ歩いたり、茂みの中で休んだりすることもあるだろう。

しかし、あと10年もすれば、大空高く飛んでいる5羽の鷹の姿を、僕は地上から眺めることができる。

そう、研修が終わった瞬間から、立場は逆になるのだ。

現場でモニタリングをしたり、解析を行うみんなが、僕の給料を稼いでくれる。

僕は、地上でぼんやりと、そして羨ましく、きみたちを眺める立場でしかない。


2004年5月8日
継続こそ力

前回のタイトルは「もう止めない?」なのに、今回は「継続」だ。

まったく、我ながらどうかと思うタイトルの付けかただと思うけれど、もちろん中味は前回と全く関係無い。

「夢を叶える」ということを考えた。

僕の研修を受けている新人たちに将来の夢(希望)を聞いてみた。各自、いろんな夢を持っていた。もちろん僕には僕の夢がある。(俳句で同人になる)
どうしたら、その夢を叶えることができるのだろうか?

僕は「夢を見続けること」が、夢を叶える重要な方法だと思う。
常に、自分の夢を胸に秘めておく。
そして、その夢をかなえるための準備を開始する。(たとえば海外で働きたいなら英語の勉強を始めるとかね)

その時、1週間であれば続けられることを1つあげ、そのことを10年間続けるのだ。
夢が叶うかどうかは、どれくらい「継続」できるかどうかに掛かってる。

優秀とされているビジネスパーソンの話を聞くと、この「継続」するというキーワードが多く出てくることがわかる。
(ビジネスに限らないが)

例えば、お客様への手書きのお礼状であったり、毎日仕事上で気が付いたことを日報としてまとめていくことであったり・・・・・・彼(彼女)らは、良いと思ったことは必ず実践し、そして妥協せずに100%実践し続けているのだ。

1年365日の1日も欠かさずにやる。
1週間なら続けられることを、10年間「継続」し続けることが大切だ。

もちろん、お礼状を書いたり、日報をつける事自体が成果を上げるための絶対条件ではない。
ただ、そのような事を妥協せずに100%「継続」できる人は、やはり他の分野でもしっかりとした仕事をしているであろうことは、容易に想像できる。


僕を含め多くの人は「今日ぐらいは良いだろう」、「今日は疲れたから、明日まとめてやろう」などと自分に言い訳をして「継続」することが出来ない。(僕だけ?)

そのくせ、「何か一発逆転できるウルトラCのノウハウはないか」といって地に足のついていないことばかり追いかけている。

1週間なら継続できる。大抵のことはね。 でも、それを5年、10年続けられるかどうか。
それは、僕の(あなたの)「夢を叶えたい」という気持ちに正直に比例する。

「成功するための唯一の秘訣は、成功するまで続けること」だ。
「地道な努力を、徹底的に継続してやる」、これまた「夢を叶える唯一の秘訣」だと思う。

そして、「夢」は叶えるためにあるのだ。


2004年5月8日
そろそろ止めない?

次々と治験に関する規模の大きいネットワークが立ち上がってきた。

・日本医師会
・国立病院機構
・徳州会
・日赤

また、各地方においても、基幹病院や大学病院等が独自のネットワーク作りを始めている。
CRCの方の人数も少しずつ多くなってきた。臨床薬理学会ではCRCの認定を検討し始めた。
CRO、SMOも各地にある。

ところで、僕の「無頼日記」にも書いたが、厚生労働省と文部科学省の「全国治験活性化3ヵ年計画フォローアップに関する連絡協議会」が4月27日、日本製薬工業協会(製薬協)、米国研究製薬工業協会(PhRMA)、欧州製薬団体連合会(EFPIA)の3団体代表からヒアリングをした。

このうち、製薬協の担当者は、治験経費を原価重視とすることや、国立大学・病院の独立行政法人化に伴い経理処理を柔軟にすること、三極同時開発が行われた場合には優先審査とすることなどを求めた。

また、PhRMAは、研修医制度に治験を組み入れることなどを要請。

EFPIAは、「治験の活性化によりメリットを受けるのは国民であり、理解と支援のための国策が必要」と、国の積極的な取り組みを求めた。

この日のヒアリングは、同計画の進捗状況を両省が説明する形で実施。
ヒアリングをもとに今後、計画の見直しも検討する予定だ。

日欧米の三極の主張が面白い。

日本・・・「経費・経理、三極同時開発関係」 → 「経済的側面」を言っている。

アメリカ・・・「医師に治験を教育」 → 「教育の重要性」を言っている。

ヨーロッパ・・・「治験を国策とせよ」 → 「戦略」を言っている。

それぞれには、それぞれの事情なり、なんなりが有るのだろう。でも、こうして、三極の主張を比較してみると、また違った見方ができて考えさせられる。


医療機関側としてはネットワーク作りがあり、行政は活性化計画があり、学会等でもCRC養成が始まっている。
治験の活性化、基盤整備に、みんなが努力をしている。
翻って、製薬企業側はどうだろうか?

なにか思いつく? 僕はすぐには、思いつかないけれど、きっと各社はそれなりに頑張っていると思います。製薬協も頑張っていると思います。

だから、もう「治験の空洞化」とか「治験の基盤整備が弱い」とか、「言い訳」や「マイナスの言葉」はそろそろ止めませんか?

できない理由や言い訳なんて、探せば、いくらでも出てきます。治験に限らず、何事においても100%完璧はありません。
もちろん、問題があれば、それを解決する努力は必要です。しかし、その問題を「言い訳」にするのは、もう止めましょうよ。

どんな「理由」も、病気で苦しんでいる人たちにとっては「言い訳」、「怠慢」としかうつらない気がします。

できるところから、さっさとやる。あるいは、できない理由があったら、早急に解決する。 ね?


何年か前に、新入社員の研修中に「治験を促進する方法」を検討させたことがあります。
すると、みんな「行政」や「業界」としての活動しか答えは出てきませんでした。
最後に、僕は「あなた個人には、何ができる? みんな、一人一人ができるものってない?」と質問してみました。

新入社員全員「?」でした。 
そこで、僕「たとえばね、大学の同窓会に行くじゃない。で、どんな仕事しているの?って聞かれたら、治験について説明してあげても、いいじゃん。」 

一同うなずく。


みんなさ、当事者意識を持って、やっていこうよ。 
あれが足りない、これが不足している・・・・・・無かったら、自分で作る。不足していたら、知恵を働かせて、補う。

治験の促進で僕にできること、あなたにできること、きっとあるはず。

5月5日は「薬の日」を前にして。

2004年5月4日
ゴミは捨てても、ホコリは捨てるな

新人くんたちは、そろそろ実際に所属する部署に行った頃だろうか?

そんな新人くんたちのために、もう何年か前に書いた日記を思い出して、ここに、もう一度書こうと思っていることがあります。

会社、組織に所属すると、その中で必ず見かける人に、すぐに失敗を「言い訳」や「他人のせいにする」という人がいるもんです。

また、部下が新しいことにチャレンジしようとしても、「やるのは勝手だが、失敗しても俺は責任とれんぞ」という上司もいます。

自分のことしか考えていない人。 あるいは、自分を守る、保護することしか考えない人です。
こういう行為を「保身(ほしん)」といいます。 

保身=自分を保護する、あるいは身を守る=保護、身=護身=ゴミです

これから新しく社会に出て行く人たち、新入社員のみなさんは、こんなゴミをポイ!しましょう。

それよりも、自分の仕事に誇りを持とうではありませんか。
ゴミはポイ!しても、ホコリ(誇り)は捨てないようにしましょうね。

どんな職業についても、自分の仕事に誇りを持つことが大切です。
それは、自分の選んだ道、業種に対してもそうですし、自分が直接やっている仕事に対しても同じです。

「薬を作る」という過程には、とってもたくさんの人たち、職種の人たちが関与します。

それらの多くの職種の人たちと協力しあいながらやっている僕たちの仕事は、患者さんから一日でも、一秒でも早く苦しみ、痛み、悩みを取り除く「薬」を作ることです。

そのような仕事に対して「誇り」をもって仕事をしましょう。
そして、その誇りに恥ずかしくないような仕事をきちんとやろうではありませんか。

ゴミはすぐにたまりますが、ホコリはなかなかたまりません。
時間をかけ、日々の仕事を誠実にこなしていくことを積み重ねないと、ホコリはたまってくれない性質をもっているようです。

あれ? これは新人くんたちに、というより自分に対して言っていることですな。



2004年4月25日
もう一度考えたい
治験について原点に戻って考えたい。

薬は、まず「化合物」として見つかる。

たとえば柳の木から「アセチルサリチル酸」という「有機化合物」が見つかったとしよう。

そのアセチルサリチル酸をマウスなどの動物実験(これらの実験を非臨床試験と言う)で、炎症を抑える働きが有ることが分かった。
さらに、毒性などを調べる。 これもほぼ問題が無かったとしよう。

そこで、科学者は、この「アセチルサリチル酸」という「有機化合物」を人間の炎症も抑えることができたら、どんなに素晴らしいだろうと思う。
そのためには、まず非臨床試験の結果(安全性、有効性、一般的な薬理作用、毒性など等)をまとめ、それらから、人間に使用可能かどうか判断する。

使用可能という判断ができたら、最初は一般の健康な男性を対象とした第1相臨床試験というものをやる。
その試験を行う方法をプロトコールという臨床試験の試験方法にまとめる。

その中には治験に参加可能な人の条件(登録基準)、参加できない人の条件(除外基準)、アセチルサリチル酸をどれ位の量で、どのように人間に使うか・・・・・・など等を細かく規定する。

もちろん、治験に参加して頂く人に対する「同意説明文書」も作る。
他にも、いろんなことを決めて、「総合機構」に治験届を出す。

治験届を出して、問題が無かったら、アセチルサリチル酸は「有機化合物」から「治験薬」と名前を変えて、人間に使われる。

そして、順次、適切な手順を踏んで、最後の第3相臨床試験のデータも全て出揃い、人間に使っても大きな副作用も出ず、しかも炎症を抑える効果も有ることが証明できたとしよう。

これらのデータを全て(非臨床試験から臨床試験、それに製造方法、分析方法なども含めて)集めて、「総合機構」へ提出される。

「総合機構」は提出された結果からGLP、GCP、GMP上の問題が無いかどうか、有効性、安全性に問題が無いかを審査する。

問題が無いと、厚生労働省へ審査結果が送られ、最終的には「厚生労働大臣」により製造の承認許可が出され、世の中に出ることになる。
世の中に出ると、アセチルサリチル酸は商品名「×××」という名で「薬」となる。


ここで注目したいのは、柳から発見された「アセチルサリチル酸」という「有機化合物」の構造式は全く変わってないということだ。

構造式が変わってないのに、それが単なる「有機化合物」から「治験薬」になり、最後には「薬」と呼ばれる。
どうしてだろう?
どうして、構造そのものが全く変わってないのに、「薬」と呼んでいいのだろう。

構造式が変わってないのなら、何が変わったのか?

それは「アセチルサリチル酸」に「有効性」や「安全性」という「データ」即ち「情報」が附加されたからだ。

化合物を薬に変えたのは「情報」である。
そして、審査する「総合機構」の人も、厚生労働大臣も、製薬会社が提出した「紙に書かれたデータ(情報)」しか見ていないのだ。

審査する人の誰一人として、アセチルサリチル酸の結晶構造を直接見たわけではない。
さらに、審査する人の誰一人として、治験中に治験薬を飲んだ患者さんから、直接、「効いたかどうか」、「副作用は無かったか」を聞いた人はいない。

審査する側は製薬会社が提出した紙に書かれただけの「データ(情報)」を信頼して(書面調査や実地調査等も含めて)、審査する。
厚生労働大臣はその審査結果(これまた、ただの紙に書かれたもの)を信頼して、薬として販売することを許可する。

世の中に出た「薬」は添付文書という注意書きと共に「医者」に届く。
医者は国が認めたことと添付文書に書かれたことを信頼して、患者さんに使う。

患者さんは、医者を信頼して、その薬を使う。


GCP上、製薬会社は治験に対してデータの信頼性保証を行う義務がある。
じゃ、一体、誰に対して「信頼性」を「保証」するのか?

それは、その会社の臨床監査部門に対してか?
それとも、「総合機構」に対してか?
「厚生労働大臣」?

いずれも、違う。 

僕たちは、その薬を使うことになる患者さんに対して、薬の効果と副作用のデータの「信頼性」を「保証」するのだ。

僕たちの仕事は、機構や監査から指摘を減らすのが仕事なんかではない。

薬を使ってもらう、いや、「使わざるを得ない患者さん」に対して僕たちのやっている仕事を信じてもらうために、信頼してもらうために、GCPを守りながら仕事をしてるのだ。
患者さんは、僕たちを信頼しているのだ。


もし、このサイトを通じて、一般の人や「薬を使わざるを得ない患者さん」のみなさんに、僕を信じてもらえなかったら、それは、もう僕の存在価値が無いということに等しい。



2004年4月18日

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